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福井ゆかりの人物を調べよう! 福井市立郷土歴史博物館
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橋本 左内はしもと さない  はしもとさない 

年齢

できごと

1834年
(天保てんぽう5年)

1歳

福井城下の常磐ときわ町(現在の春山2丁目)に、福井藩おかかえの医者の長男として生まれる。

1845年
(弘化こうか2年)
12歳 福井藩の医学の学校「済世館さいせいかん」に入り、漢方医学かんぽういがくを学ぶ
1848年
(嘉永かえい元年)
15歳 「啓発録けいはつろく」を書く。
1849年
(嘉永2年)
16歳 大坂のオランダ医学の先生・緒方洪庵おがたこうあんが開いた塾「適塾てきじゅく」に入門。
1852年
(嘉永5年)
19歳 父親が亡くなり、あとをついで藩おかかえの医者になる。
1854年
(安政あんせい元年)
21歳 江戸に出て、医学以外の西洋の学問などを幅広く学ぶ。
1855年
(安政2年)
22歳 「書院番しょいんばん」(藩主の近くにつかえ、警護けいごをする役)に選ばれる。(医者から書院番に選ばれることは普通ありえない。特別に選ばれた。)
1856年
(安政3年)
23歳 福井藩の学校「明道館めいどうかんの教師となり、学校の改革かいかくに取り組む。
1857年
(安政4年)
24歳 江戸に出て、藩主・松平春嶽まつだいらしゅんがくの相談役そうだんやくになる。
1858年
(安政5年)
25歳 春嶽の命令をうけて、京都で政治活動をする。
1859年
(安政6年)
26歳 安政の大獄あんせいのたいごく。危険人物きけんじんぶつとされて幕府につかまり、死刑しけいとなる。

●こんなことをしました!
「啓発録けいはつろく」を書いたよ!  15歳(現代の数え方では14歳)のときに、先人せんじん(=むかしのえらいひと)の言行や精神を学び、自分を常に奮ふるい立たせるために、これから生きていくうえでの目標を5つにまとめた「啓発録けいはつろくを書いた。
「明道館めいどうかん」で活躍したよ!  23歳のときに福井藩の学校「明道館」の先生になり、25歳で教頭先生のような役職につき、当時の最先端だった西洋の学問(天文学てんもんがく・物理学ぶつりがく・測量学そくりょうがく・地学ちがくなど)を学べるようにした。
世界に目を向けていたよ!  「イギリスなど西洋の強い国々の野心やしんに対抗たいこうするため、比較的近いロシアと同盟どうめいすべき」など、諸外国しょがいこくとの関係もいろいろ考えていた。

●エピソード
焼け火箸やけひばしの話

 ⇒「負けない!少年 左内くん」
 左内が12歳のとき、同じ塾じゅくに通っている子がけがをした。日頃から左内のことを生意気なまいきなやつだと思っていたいじめっ子が、左内に「医者の子どもなら治してみせろよ」とせまった。
左内は「よし」と熱ねっした火箸ひばしをもってきてけがをした子の傷口きずぐちに当てようとした。それを聞いた塾の先生があわてて止めに入った。
理由を聞かれた左内は「僕はまだ切り傷の治療法ちりょうほうは知りませんが、やけどの治療なら知っておりますので」と平然と答えてみんなをびっくりさせた。

ものまねが上手でみかん大好き

 左内の友達によると、他人のものまねが上手で、よく友人だった西郷隆盛さいごうたかもりのまねをしてまわりを笑わせていた。あと猫の鳴きまねも上手だった。
みかんが大好きでその場にあるだけ全部食べてしまった。
西郷隆盛からみた左内  明治維新でかつやくした西郷隆盛は、若い頃江戸で左内と知り合い友人になった。左内のことを「同じくらいの年齢では左内さんが最も立派な人だ。学問や人物の大きさではわたしはとうていかなわない」と評価している。
のち、西南戦争せいなんせんそうで負けて亡くなった隆盛が最期まで持っていたかばんには、左内の手紙が入っていたという。

●読んでみよう!(福井市内の図書館などにあります)
  • 『やさしい啓発録』(福井市立郷土歴史博物館刊)
  • 『橋本左内って知ってるかい?』(福井市立郷土歴史博物館刊)
  • 『橋本左内と安政の大獄』(福井市立郷土歴史博物館刊)
  • 『橋本左内と弟綱常』(福井市立郷土歴史博物館刊)