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福井ゆかりの人物を調べよう! 福井市立郷土歴史博物館
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  • 公武合体こうぶがったい
 朝廷ちょうていと幕府ばくふが協力して政治を行おうという方針ほうしん。1860年(安政7年・万延元年)に大老たいろう・井伊直弼いいなおすけが暗殺あんさつされてから強いリーダーを失った幕府は、朝廷と手を結ぶ方針をとり、当時の孝明天皇こうめいてんのうの妹・和宮かずのみやと将軍・徳川家茂とくがわいえもちの結婚けっこんを実現させるなどして、天皇の権威けんいをかりて幕府の権力けんりょくをとりもどそうとした。
 外国と結んだ条約じょうやくを破やぶって、あくまでも攘夷じょうい(外国うちはらい)をおこなおう、という長州藩ちょうしゅうはん(現在の山口県)を中心とした尊皇攘夷そんのうじょうい派と、福井藩や土佐藩とさはん(現在の高知県)・薩摩藩(現在の鹿児島県)などの公武合体こうぶがったい派は対立し、一時は尊皇攘夷派が京都から追放され、力を失った(8月18日の政変・禁門の変きんもんのへん)。
 一方、公武合体派も、あくまで幕府中心での政治をめざす考えと、福井・薩摩・土佐など大名たちが会議をおこして共同で政治をおこなうという考えが対立し、やがて薩摩藩が公武合体での改革をあきらめて、武力での倒幕とうばく(幕府をたおす)をめざす長州藩と盟約めいやくをむすんだことで、倒幕の流れが強まった。
 福井藩や土佐藩はそんな中でもあくまで戦争をさけ、朝廷の下で諸大名が連合する形の政治をめざし、将軍・徳川慶喜に大政奉還たいせいほうかんを提案、慶喜がこれを行った。
 しかし薩摩藩と長州藩はあくまで武力で幕府を倒すことにこだわり、幕府軍をしきりに挑発ちょうはつしたことから、戊辰戦争ぼしんせんそうがおこり、朝廷をうしろだてに、薩摩・長州を中心とした官軍が勝利して、明治新政府めいじしんせいふが成立した。