ロゴマーク
展示・講座
利用案内
学校と歴史博物館
問い合わせ・利用申請
図録の通信販売はこちら
小中学生の調べ学習のためのページ 福井市立郷土歴史博物館
ホーム > 小・中学生の調べ学習のためのページ > 江戸への旅~参勤交代~

江戸への旅 ~参勤交代
(さんきんこうたい)


 参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代、諸国の大名に江戸と領地を往復させて、それぞれに一定期間住まわせたという、江戸幕府の制度です。大名が自分の領地から江戸へおもむくことを「参勤(さんきん)」、江戸から領地へ戻ることを「交代(こうたい)」といいました。最初は大名たちが自発的に行っていましたが、3代将軍家光の時、1年ごとに江戸と領地を往復するという制度が定められました。
 大名たちにとっては大きなお金のかかる大変な旅でしたが、これによって道路や橋が整備されて交通が発達したり、江戸の町の人口が増えて発展したり、江戸と地方の文化交流がおこったりして、江戸時代独特の文化が生まれるもとになりました。


福井藩の参勤交代
 

 第16代福井藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が18歳の時、参勤交代で江戸に旅をした日記「東海日録草稿(とうかいにちろくそうこう)」(弘化2年=1845年)から、この江戸への旅のようすを見てみましょう!

  ⇒松平春嶽も旅した、福井藩の参勤交代ルート(クリックで別ウィンドウ)



月 日

何日目?

できごと

弘化2年
(1845)
3月21日

1日目

朝六つ半時(午前7時ころ)、御座所(ござしょ=藩主の住まい)から福井城本丸へ。出発の儀式を行う。五つ時(午前8時)、本丸から出発。桜門から城外の本町通りを西へ進み、大橋(九十九橋)を渡って北陸道を南へ進む。この間、家臣や領民たちの見送りを受ける。春嶽は馬に乗って出発したが、昼休みをとった水落(現・鯖江市水落町)から駕籠(かご)に乗った。途中、休憩をはさみながら七つ半時(午後5時ころ)前に今庄宿本陣(現・南越前町今庄)に到着、宿泊。
 ⇒この日の行程:10里(り)

3月22日 2日目 朝六つ時(午前6時ころ)、駕籠で今庄を出発。板取宿・栃ノ木峠で休憩をとり、近江国(現・滋賀県)に入り中河内椿坂柳ヶ瀬でも休憩。その後駕籠から降りて休みをはさみながら徒歩で行き、七つ時(午後4時ころ)過ぎに木之本(現・滋賀県長浜市木之本町)に到着、宿泊。
 ⇒この日の行程:10里半
3月23日 3日目 朝六つ時(午前6時ころ)に木之本を駕籠に乗って出発、しばらく駕籠の中で眠る。北国脇往還(ほっこくわきおうかん)を進み、春照(すいじょう、現・滋賀県米原市)で昼休み。その後関ヶ原の手前からは徒歩で進み、関ヶ原(現・岐阜県不破郡関ケ原町)で休憩。関ヶ原からは中山道を進む。夕方七つ半時(午後5時ころ)前に垂井(現・岐阜県不破郡垂井町)に到着、宿泊。
 ⇒この日の行程:9里半と8町
3月24日 4日目 朝六つ時(午前6時ころ)に垂井を出発、しばらく駕籠の中で眠る。垂井からは美濃路(みのじ)を進む。大垣城下(現・岐阜県大垣市)で休憩。殿様は城下を徒歩で歩くことができないため、城下の外れから徒歩。墨俣(すのまた=現・岐阜県大垣市墨俣町)で休憩。その後、尾張藩から屋形船を出してもらい、長良川と木曽川を渡る。渡った後、(おこし=現・愛知県一宮市)で休憩。萩原(現・愛知県一宮市)稲葉(現・愛知県稲沢市)で休憩しながら進み、夕刻七つ半時(午後5時ころ)過ぎに清州到着、宿泊。
 この日の行程:10里6町
3月25日 5日目 朝七つ半時(午前5時ころ)に清州を出発、駕籠の中で眠る。名古屋城下で休憩。有名な名古屋城天守を見ながら城下を通り、(現・愛知県名古屋市熱田区)で休憩。宮からは東海道に入り、徒歩で進む�。鳴海(現・愛知県名古屋市緑区)で昼休み。鳴海を駕籠で出発、池鯉附(知立=ちりゅう、現・愛知県知立市)と大浜村で休憩。矢矧橋(やはぎばし)を渡って岡崎城下(現・愛知県岡崎市)へ入り、六つ時(午後6時ころ)前に岡崎の本陣(ほんじん=大名の宿)に到着、宿泊。
 この日の行程:不明(日記に書かれていない)
3月26日 6日目 朝七つ半時(午前5時ころ)に岡崎を出発、駕籠の中で眠る。藤川(現・愛知県岡崎市)で休憩の後、赤坂(現・愛知県豊川市)で昼休み。その後吉田城下(現・愛知県豊橋市)二川(現・愛知県豊橋市)で休憩し、七つ時過ぎに白須賀(現・静岡県湖西市)へ到着、宿泊。
 この日の行程:不明(日記に書かれていない)
3月27日 7日目 朝七つ半時(午前5時ころ)に白須賀を出発、駕籠の中で眠る。新居(現・静岡県湖西市)の関所で駕籠の戸を開き、関所番の役人にあいさつする。今切渡(いまぎれのわたし)で船に乗り、遠州灘(えんしゅうなだ)を見物しながら海を渡る。上陸後は休憩しながら進み、浜松城下(現・静岡県浜松市)で昼休み。この時、福井藩初代藩主・秀康が誕生した場所である宇布見村(うぶみむら=現・静岡県浜松市雄踏町)の中村家の者が来て春嶽と面会した。その後も休憩をはさみながら進み、見附(現・静岡県磐田市)で休憩の後、七つ半時(午後5時ころ)過ぎに袋井(現・静岡県袋井市)到着、宿泊。
 この日の行程:11里半と11町
3月28日 8日目 朝七つ時(午前4時ころ)に袋井を出発、駕籠の中で眠る。掛川城下(現・静岡県掛川市)などで休憩しながら途中徒歩で歩き、金谷(現・静岡県島田市)で昼休み、大井川へ進む。大井川は大きな川であるが橋がなく、春嶽は輦台(れんだい)に乗って川を越えた。この時の渡し賃は銭94文。その後島田(現・静岡県島田市)で休憩、駕籠で藤枝(現・静岡県藤枝市)を通過し、七つ半時に岡部(現・静岡県藤枝市)に到着、宿泊。
 この日の行程:11里16町
3月29日 9日目 朝七つ半時(午前5時ころ)に岡部を出発、駕籠の中で眠る。丸子(現・静岡県静岡市駿河区)を過ぎると安倍川にさしかかる。この川にも橋がなく、春嶽は大井川と同じく輦台(れんだい)に乗って川を越えた。この時の渡し賃は15文。川を渡った後、茶屋で休み、名物の安倍川餅を食べる。その後府中(現・静岡県静岡市葵区)を通り、江尻(現・静岡市清水区)で昼休み。興津(おきつ現・静岡市清水区)から岩城山を越えて西倉沢というところで休憩し、由比(現・静岡市清水区)などを通過して七つ時(午後4時)過ぎに蒲原(現・静岡市清水区)に到着、宿泊。
 この日の行程:11里10町
 4月1日 10日目  朝七つ半時(午前5時ころ)に蒲原を出発、駕籠の中で眠る。休憩しながら進み、富士川にさしかかる。渡し舟で川を渡り、富士山を見物しながら吉原(現・静岡県富士市)まで歩き、そこで昼休み。吉原からは駕籠で出発し、沼津城下(現・静岡県沼津市)などで休憩し、八つ半時に徒歩で三島(現・静岡県三島市)に到着、宿泊。
 この日の行程:9里
 4月2日 11日目   朝七つ半時(午前5時ころ)に三島を出発、駕籠の中で眠る。途中の笹原村・山中村で休憩しながら伊豆国(いずのくに=現在の静岡県東部)・相模国(さがみのくに=現在の神奈川県の大半)の国境を越え、箱根の本陣で昼休み。本陣の庭から芦ノ湖をながめる。箱根を駕籠に乗って出発、箱根の関所を通過してから歩いて「猿すべり坂」を越えて(現・神奈川県足柄下郡箱根町)で休憩。さらに湯本まで進んで休憩。七つ時(午後4時)前に小田原(現・神奈川県小田原市)に到着、宿泊。
 この日の行程:8里
 4月3日 12日目  朝六つ時に小田原を出発、駕籠の中で眠る。酒匂川(さかわがわ)を越え、休憩をはさみながら進んで途中から駕籠に乗り、大磯(現・神奈川県中郡大磯町)で昼休み。大磯を駕籠で出発し平塚(現・神奈川県平塚市)を越えて馬入川(相模川)を船で渡る。川を越えて休憩の後さらに進み、八つ半時(午後3時ころ)に藤沢(現・神奈川県藤沢市)に到着、宿泊。
 この日の行程:8里
 4月4日 13日目   朝七つ半時(午前5時ころ)に藤沢を出発、駕籠の中で少し眠る。戸塚(現・神奈川県横浜市戸塚区)で休憩。その後も休憩しながら進み、品川(現・東京都品川区)に到着、宿泊。
 4月5日 14日目   朝五つ時(午前8時ころ)品川を出発。江戸・常盤橋(ときわばし=現・東京都千代田区日本橋)の福井藩上屋敷に到着。

参勤交代にまつわるギモン!
福井と江戸の間を何日で旅したの? ⇒記録によると、だいたい13日~14日かかっています。ただし、途中の川が大雨で増水して渡れなくなったりして時間がかかり、20日ほどかかったこともあったようです。
何人くらいの家来を連れて旅をしたの? 福井藩では、およそ1,000人が藩主とともに旅をしました。おとなりの加賀藩では、2,000人以上の規模だったそうです。

 お金はどれくらいかかったの?  福井藩の記録によると、享和3年(1803)の記録では、およそ2,000両が準備されたとされています。今のお金に換算すると、およそ6,000~8,000万円ほどになると思います。


見てみよう!