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平成28年夏季特別陳列 「大坂の陣と福井藩-越前松平勢の活躍と家臣たち-」 福井市立郷土歴史博物館
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 昨年、400年目を迎えた大坂の陣。今年の大河ドラマでは勇将・真田幸村(信繁)を主人公にした「真田丸」が放映され、注目が集まっています。当館では平成24年に特別展「大坂の陣と越前勢」を開催しましたが、この機会に改めて、大坂の陣での越前松平勢の活躍をさまざまな資料で紹介するとともに、この戦いに参陣した福井藩士の家に伝来した史料を展示します。
 また会場では、福井藩祖結城秀康が所持していたとされる名槍「御手杵の槍」の復元品(比企御手杵)も、福井で初めて公開されます。盛り沢山の展示となっておりますので、是非ご観覧ください。
開催概要
会  期 7月22日(金曜日)~8月31日(水曜日) ※休館日は8月22日月曜日のみ
開館時間:午前9時~午後7時(入館は閉館時間の30分前まで)
会  場 福井市立郷土歴史博物館
観 覧 料 一般400円、中学生以下無料
・70歳以上の方、身体障害者手帳、療育手帳、精神障害者保健福祉手帳の交付を受けている方とその介助者の方は、無料でご覧いただけます。
特別展観覧料で、平常展示および養浩館庭園もご覧になれます。
・友の会優待観覧券で観覧できます。
・有料入場者20名以上の団体は2割引きとなります。
展示構成
  • プロロ-グ
     慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、同8年に征夷大将軍に任官して江戸幕府を開き、同10年には秀忠へ将軍職を譲りました。一方、大坂城には豊臣秀吉の遺児秀頼が居り、諸大名とは別格の存在として確固たる地位を保っていました。徳川氏が将来にわたり天下を支配し続けるためには、どうしても豊臣氏の勢力を排除しておく必要があったのですが、そのきっかけとなったのが、京都にある方広寺の鐘銘事件でした。慶長19年(1614)7月、徳川方は秀頼が再興した方広寺の鐘銘に、「国家安康」「君臣豊楽」とあるのは、家康の字を裂き、豊臣を君として楽しむものであるとして、豊臣方を問いただし、弁明の使者として大坂から片桐且元が駿府へ派遣されました。その時、家康が且元に対して出したとされる3条件は次のとおりです。
    ①秀頼が江戸へ参勤すること ②淀殿が人質として江戸へ下ること ③秀頼は国替えに応じ大坂城を出ること
    結局、豊臣方は拒絶し、開戦準備のために、大坂城へ大量の兵糧米を備蓄し、多数の浪人を集め始めました。
  • 第一章 大坂冬の陣と福井藩
     慶長19年(1614)10月、家康は豊臣方の不穏な動きを受けて、諸大名に出陣を命じました。そして、11月半ばには20万を超える徳川方の軍勢が、10万5千の将兵が立て篭もる大坂城を包囲しました。12月4日、2代藩主忠直が率いる福井藩の軍勢は、加賀藩や彦根藩など、徳川方の将兵とともに、大坂城を南方から攻めかかりました。しかし、城方の銃撃などにより多数の死傷者を出して退きました。因みに、福井藩の本隊は八丁目口付近の総構を中心に攻めましたが、一部の兵は真田幸村(信繁)が造らせたとされる出丸、「真田丸」の攻略に向かったようです。大坂城が堅固であることを悟った家康は、鉄砲・大砲による砲撃を行い、福井藩にも砲撃命令が下りました。連日の攻撃で、淀殿など城中の人々を動揺させた結果、同月21日には、城の堀を埋めることなどを条件に、徳川方と豊臣方の和議が成立しました。
  • 第二章 大坂夏の陣と福井藩
     和議の成立後、家康は秀頼に対して、籠城する浪人を召し放つか、大和郡山へ移るかを迫りました。豊臣方が容認できるはずもなく、再び戦さの道へと突き進んでいきます。本丸を除くほとんどの堀が埋め立てられたことで、大坂城は「裸城」同然の有様となり、幸村(信繁)など豊臣方の諸将は、城外での戦いを強いられることになりました。また兵力も、徳川方の約15万に対し豊臣方は約5万と、両陣営にはかなりの差があったようです。そのような中で夏の陣が勃発し、慶長20年(1615)5月6日・7日の両日、徳川方と豊臣方の間では、最後となる本格的な戦闘が繰り広げられました。特に6日の戦いでは、福井藩の軍勢が徳川方の兵に加勢をしなかったことにより家康から昼寝をしていたのかと叱責され、翌日、決死の覚悟で奮戦することになります。最終決戦となった5月7日、天王寺表にまで兵を進めた福井藩は真田隊などと激しく激突しました。その模様は「大坂夏の陣図屏風」の右隻中央部にも描かれています。多勢に勝る越前の兵は真田隊を撃破、家臣西尾仁左衛門が勇将幸村を打ち取り、勢いに乗って大坂城一番乗りを果します。翌8日、秀頼は母淀殿とともに自害し、豊臣家は滅亡します。この戦いで多くの将兵・庶民が亡くなりましたが、ようやく戦国乱世も終わり、世の中は天下泰平の時代を迎えたのです。
  • 第三章 大坂の陣に参陣した家臣と家
     福井藩の藩祖結城秀康は、68万石の大大名に相応しく、多くの家臣を召し抱えましたが、その家臣たちが忠直の時代、大坂の陣で活躍することになります。今回は、戦国大名武田家の旧臣であった山縣家(笹治)家、秀康の結城城主時代からの家臣で「結城四老」と称された多賀谷家と山川家の三家を取り上げ、各家に伝来した知行や由緒、大坂の陣などに関連する資料を展示します。特に県内初公開となる多賀谷家の古文書は、豊臣秀吉や徳川家康、結城秀康や松平忠直の書状などを陳列しますので、こちらにも注目ください。
主な展示資料
 
大坂夏の陣図屏風(複製・原本大阪城天守閣蔵)
 
緋威鉄五枚胴具足 松平忠直所用
(京都井伊美術館寄託)
 
采配 伝真田幸村所用
(越葵文庫 当館保管)
 
初花の茶壺
(越葵文庫 当館保管)
ギャラリートーク(担当学芸員による展示解説)
7月23日(土)、8月7日(日)、8月13日(土)、8月21日(日)
各回とも午後2時から30分程度 展示会場にて
※特別展観覧券が必要です。
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