●プロローグ ~明智光秀~
明智光秀は、本能寺の変で主君の織田信長を討った天下の謀反人として知られる武将です。その一方で、変を起こした理由を始め、出自が不明なこと等、謎が多い武将でもあります。
また、経歴の初期に朝倉義景のもとにいたと考えられていることや、信長軍の一員として度々越前に侵攻するなど、越前にゆかりのある人物でもあります。
本展では、光秀の屋敷跡と伝わる場所など、関わりのある場所や、本能寺の変の後、翻弄されながら越前の領主になった武将たちを紹介し、光秀と越前の関係に迫ります。
(写真左:紅糸威本小札二枚胴具足 伝明智光秀所用 /井伊美術館)
→徳川家康の家臣で一時、光秀にも仕えた木俣守勝が家康から帰参を命じられ、光秀のもとを去る際に 彼から贈られた品の一つとして伝わる。守勝は後に彦根藩家老となり井伊直政・直勝を補佐した。
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●第1章 光秀の出自 ~光秀と朝倉氏~
織田信長に仕えるまでの光秀の出自については様々な説がありますが、残された資料が少なく明らかではありません。定説では、美濃守護土岐氏の一族である明智氏に生まれるも、その後に起こった美濃の内乱に巻き込まれて破れ、越前の朝倉氏のもとに逃れてきたとされています。越前に来た理由についても明らかではありませんが、越前と美濃は隣国であり古くから政治・経済の面で深いつながりがあっ
たことが可能性として考えられます。
(写真上:朝倉義景像(部分)(重要文化財) /心月寺)
(写真右:黒漆塗総覆輪二十四間阿古陀形筋兜鉢(伝朝倉義景所用) /井伊美術館) |
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●第2章 越前での光秀 ~雌伏のとき~
越前には称念寺(坂井市丸岡町)と東大味町(福井市)に光秀が住んでいたという伝承が残る場所があります。称念寺では門前に住み、寺子屋を開いていたとの伝承、東大味町には織田信長による越前攻めの際、かつて暮らした村を戦禍から守ったとの伝承が残ります。そのため、両地域では光秀は昔から慕われる存在でした。その他に、どのような記録・伝承が残っているのでしょうか。ここでは、その記
録類を紹介します。 後の活躍をみると、越前にいたとされる時期は、“雌伏のとき”といって良いでしょう。
(写真上:明智神社(福井市東大味町))
(写真右:狛犬(永禄9年銘) /東大味町八幡神社)
→東大味町の八幡神社に納められている笏谷石製の狛犬。八幡神社は養老元(717)年泰澄大師の創建とされ、朝倉氏も崇敬したという。吽形 うんぎょう像の前足に「永禄九三月一日」の銘がある。永禄9(1566)年
は光秀が朝倉氏のもとにいたと考えられる時期でもある。
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●第3章 織田信長の家臣として ~飛躍のとき~
朝倉氏のもとを去り、しばらく足利義昭と織田信長に両属したあと、2人の関係が悪化すると、光秀は信長の家臣となります。光秀の活躍は目覚しく、京の代官を始め近江や丹波に領地を与えられるなど、
新参者ながら、短期間のうちに重臣クラスにまで登りつめました。 信長のもとでは諸国統一のため、各地を転戦しましたが、その中には、かつて暮らした越前の平定も含まれていました。この信長と光秀の関係はもとを辿れば、光秀が越前にいたことから始まるのであり、
それがなければ本能寺の変も起こらなかったかもしれません。 ここ越前は、彼の活躍が始まり、大きな歴史が動きはじめた場所と言えるでしょう。
(写真右:瀧川一益・羽柴秀吉・明智光秀連署状 (福井県指定文化財)
/福井県立歴史博物館)
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●第4章 本能寺の変 ~そして、最期のとき~
天正10(1582)年は信長の統一事業が飛躍的に進展した年でした。最大の脅威であった武田氏を 滅ぼし、軍を毛利氏などの残る勢力に振り向けることができるようになり、諸国統一は時間の問題
となっていました。しかし、天正5(1577)年には松永久秀が、翌年には荒木村重といった信頼していた家臣が反旗を翻すなど、盤石と思われた信長政権にも、ほころびが見え始めていました。そのような状況の中、信長のもとに中国地方の毛利氏攻めで苦戦している羽柴秀吉から援軍要請があり、彼自ら軍を率いて援軍に向かうことを決定します。光秀も、その援軍に加わるよう命を受け、準備のため五月下旬に領地の亀山に向かいました。しかし、六月二日、突如自軍の行き先を信長の宿所である本能寺に変え、主君を自害に追い込むのでした。
(写真上:国史画帖大和桜(本能寺之変))
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●エピローグ 光秀に翻弄された男たち ~越前ゆかりの武将~
織田信長と明智光秀の家臣だった武将の中には、本能寺の変後、越前国内の領主になるなど、越前に深く関わった人たちがいます。彼らの本能寺の変が起きたときの状況や、その後の動向を紹介します。
(写真左:柴田勝家肖像画 /柴田勝次郎氏)
(写真中:丹羽長秀像 /東京大学史料編纂所所蔵模写 )
(写真右:堀秀政像 /長慶寺) |
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