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一、 国事奔走時代の橋本左内 |
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藩校明道館の改革に努力していた24歳の橋本左内は、安政4(1857)年8月、松平春嶽の命を受けて、侍読兼御内用掛として春嶽に近侍することになりました。
春嶽からの内命は、将軍継嗣問題で、英明の誉れが高く人望の厚い一橋慶喜を将軍の跡継ぎに決定するよう幕府の要人や京都の公家たちを説得することでした。松平春嶽の片腕として活躍した橋本左内の活動を史料によって紹介します。 |
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二、 一橋派の敗北と松平春嶽 |
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橋本左内の学識と見識は、多くの人々を感動させましたが、将軍継嗣血統論を盾に紀伊藩主徳川慶福(のちの家茂)を擁立した政敵井伊直弼の大老就任により、春嶽はじめ一橋派は加速度的に敗北に追い込まれました。大老井伊直弼は、徳川慶福を将軍後継に強行決定し、松平春嶽をはじめとする一橋派の諸侯や反対派を厳罰に処しました。福井藩では、藩主春嶽が隠居慎みを命じられるという不幸を蒙りましたが、皮肉にも隣の鯖江藩では藩主が老中に抜擢され、井伊大老のもとで「安政の大獄」の指揮を執ることになります。 |
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三、 安政の大獄と橋本左内 |
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反対派の一掃を謀った井伊直弼による安政の大獄は、約80名の処分に及びました。左内にもその弾圧の手は伸び、安政5(1858)年10月22日に至って、藩邸内に謹慎を命じられました。その後左内は、ほぼ一年間、奉行所や評定所で執拗な取調べを受けました。左内は堂々と論陣をはり、幕府役人の中にも理解者が現れるほどでありました。
そして幽囚時代の左内は、静かな研究と読書の日常を送っています。 |
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四、 橋本左内の最期と吉田松陰 |
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安政6(1859)年10月2日、江戸伝馬町獄舎に入獄が命じられた橋本左内は、同7日ここで斬首に処せられました。はじめ左内の処罰案は「遠島」でありましたが、やがて付け紙により「死罪」に決し執行されました。この間の裁判記録が彦根藩井伊家文書として残っています。
また、同じく左内の20日後に刑死した吉田松陰との最期の交流が松陰の遺書『留魂録』などに見受けられます。左内と松陰は、互いに認め合いながら見えることなく同じ獄舎でこの世を去ったのです。 |
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五、 橋本左内没後の影響 |
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左内亡き後、主君松平春嶽や左内の上司であった中根雪江をはじめとする福井藩の人々、そして残された兄弟たちによって、左内の偉業や生涯が書き綴られ、語り継がれていきました。人々の追悼活動など没後の影響について紹介していきます。 |
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展示解説シート(列品目録、6.0MB) |