養浩館庭園の沿革 養浩館庭園
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養浩館庭園 市民の憩いの場所として、また観光の名所として親しまれている名勝養浩館庭園は、江戸時代には「御泉水屋敷」と呼ばれ、福井藩主松平家の別邸でありました。
 御泉水屋敷の成立時期については明らかでない点が多いのですが、元々この場所は、藩の重臣永見右衛門の屋敷地で永見氏が2代藩主忠直に成敗されてより藩主の別邸になったと伝えられています。御泉水屋敷の文献上の初見は明暦2年(1656)で、4代藩主光通の側室が御泉水屋敷において男子(権蔵)を産んだと福井藩の歴史書である『国事叢記』などに出てきます。
 この御泉水屋敷が今見るような姿に整備されたのは7代藩主昌明(のちに吉品と改名、元5代藩主昌親)の頃とされてます。吉品は従来の御泉水屋敷である「本御泉水」の改造・整備に加え、西隣に「新御泉水屋敷」を建て自らの隠居所としました。この時、御泉水屋敷の敷地は最も広くなり、今の養浩館庭園・お泉水公園・歴史博物館を合わせた程の大きさとなりました。
 吉品没後の御泉水屋敷は、茶会・饗応の席や藩主一族の休養の場、住居などとして使われたようですが、その規模は新御泉水部分を縮小した元の御泉水屋敷の敷地に戻りました。また幕末頃には洋式銃の製造所が設けられるなど時勢を反映した使われ方もしたようです。
 明治時代、廃藩置県によって福井城は政府所有となりますが、御泉水屋敷の敷地は引き続き松平家の所有地として、その福井事務所や迎賓館としての機能を果たしました。明治17年には松平春嶽によって「養浩館」と名づけられ、その由緒については由利公正が明治24年に「養浩館記」を記しています。また養浩館は、その数寄屋造邸宅や回遊式林泉庭園が早くから学会で注目され、すでに戦前に建築史・庭園史の専門家による調査がなされています。
 昭和20年の福井空襲により惜しくも養浩館は焼失し、その後は長く本格的な修復は行われませんでしたが、昭和57年、国の名勝に指定されたのを機に、福井市によって復原整備が計画されました。江戸時代の文政6年(1823)に作られた「御泉水指図」を基本に、学術的な調査と復原工事が進められ、平成5年に完成、一般に公開されました。