幕末明治の福井藩を導いた16代藩主松平春嶽(慶永=1828〜90)は、将軍継嗣問題や公武合体運動の推進など、幕政にも深く関わり、その存在はわが国の歴史上、光彩を放っています。公はまた優れた学者でもあり、能筆な文人でもありました。
 福井市では、「福井の自画像づくり」事業の一つとして、明君春嶽公の生涯を映像化することになり、平成12年度より二ヵ年にわたり制作してまいりました。この映像作品「風のように、光のように〜明君松平春嶽の生涯〜」が完成し、上映会が行われたのを記念して、特に春嶽の心の支えとなった夫人勇姫と、生母青松院にスポットを当てて展覧会を行いました。


平成14年3月1日〔金〕〜4月7日〔日〕 福井市立郷土歴史博物館
主催 福井市立郷土歴史博物館  後援 FBC福井放送


松平春嶽と勇姫、そして青松院
 春嶽(慶永)の正室、勇姫(1834〜1887)は、外様の国持大名、細川斎護(熊本藩主)の三女で、名は勇(いさ)、常子と称しました。七歳のとき、当時13歳だった春嶽と婚約しますが、その後、当時猛威をふるっていた天然痘に罹りました。一命はとりとめたものの、顔に「あばた」が残ってしまったので、細川家は、婚約解消を福井藩に申し出てきました。しかし春嶽は、「いったん婚約した以上は、相手がどんな身体になろうとも結婚する」と返答します。
 福井藩に輿入れした勇姫は、和歌や読書を能くして教養を深め、大奥での倹約を奨めたり、実家熊本藩より横井小楠を招聘する際にも尽力をしたようです。春嶽との間には、女子をもうけましたが夭折しています。
 春嶽の生母、青松院(1796〜1871)は、閑院宮家司、木村政辰の養女として育ち、名を礼、通子と称しました。徳川御三卿、田安家第三代、斎匡の側室となり、春嶽を含めて二男二女をもうけましたが、夫が亡くなった後、孝養を尽くしたいとする春嶽の熱望により福井藩に迎えられました。春嶽は国許にも母を同伴させたり、常に傍らにおいて不足なく大切にしました。
右から青松院、春嶽、勇姫
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